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■新宿区史跡めぐりの会 第414回 「神楽坂界隈」■
担当:請地 直次郎さん
平成21年4月12日開催
コース@落馬地蔵A済松寺 参考由井正雪旧居跡B宗柏寺 参考平将門一族の霊位C生田春月旧居跡(参考)生田春月D泉鏡花旧居跡(参考)泉鏡花E小浜藩酒井家江戸屋敷跡(参考)杉田玄白誕生の地F観世流能宗家G秋葉神社・正雪地蔵H赤城神社(牛込総鎮守) I横寺町(水谷八重子旧居跡)J善国寺(神楽坂五―36)K行元寺跡(神楽坂五丁目)L神楽坂(神楽坂一・二・三丁目)M筑土八幡神社(筑土八幡町6番地)N若宮八幡神社(若宮町18)O寒泉精舎跡(揚場町26及び17)

■(1)落馬地蔵(早稲田町74番地)■
 三代将軍家光は鷹狩りのため江戸の西郊、北郊にしばしば出かけた。乗馬についてはかなりの自信を持っていた。それが寛永3年(1626)の初夏、高田馬場へ向かって馬を走らせ、もう一息で馬場に着くという早稲田村あたりで、急に馬がとまり前脚をあげて立ちあがった。そのはずみでさすがの家光も馬から落ちてしまった。馬の名手の将軍を落とすほどの異状があったのか供の者たちも驚き、村人に調べるよう命じた。村人も手をわけて付近をしらべたところ、ここを流れるカニ川の土橋の下から一体の地蔵菩薩の石像が現れた。
さてはこの尊い地蔵様を粗末にしたからだということで、この旨将軍に報告したところ、家光はこの石造を手厚くまつるようにということで、「落馬地蔵」と名づけてお堂をつくっておまつりをしてきた。
 残念ながら等身大のこの石像は戦災で破損しいまは別の地蔵像がまつられている。

■(2)濟松寺(榎町77番地)■
 濟松寺は徳川三代将軍家光が、祖心尼のために建てた臨済宗の大禅院です。祖心尼は江戸城の大奥を統率し、老中・諸大名などにも影響力を保持し、春日局の姪にあたる人で請われて大奥に出入をしていました。数奇な運命をたどった後出家しますが、寺領は三百四十五石で、この地域では榎町、天神町、中里町、高田町、馬場下町、早稲田町、原町他でした。境内には七堂伽藍が整備された巨刹で、広大な寺と土地を管理するために濟松寺代官が設けられました。
 宝暦年間の大火事、昭和20年5月25日の空襲をはじめとして、幾度かの大苦難の度に、寺の建物は類焼・破壊されましたが、法灯は消えることなく再び諸堂が建立され、今また往時を彷彿とさせる境内のたたずまいとなっています。
 家光の側室であった「お里佐の方」、「おまさの方」江戸の儒者木下順庵家山口菅山家の墓などがあります。また大阪の岸和田藩主・岡部家の菩提樹でもありました。 幕末に刊行された「江戸名所図会」に濟松寺の広大な境内が詳細に描かれています。 濟松寺の庭園普光園は、都内でも有数の名庭として知られていました。かっては園内に小川が流れ金明池に注ぎ、石橋が架けられ、築山を設け、巨岩がおかれていました。今では規模は縮小しましたが、境内に一歩踏み込めば都内の喧騒をよそに草花が咲き乱れ、多くの樹木が繁り、小鳥がさえずり深山幽谷の趣が残されており、往時をしのぶ事ができます
「参考」 由比正雪旧居跡(天神町一帯)
 正雪の道場は濟松寺門前から東榎町、天神町にかけて約五千坪の地所に広がり、周りは黒板塀で囲った堂々たるもので、当時正雪は五千人ほどの門弟を持ち、武者窓のある広大な道場は十数棟もあり、それに付属舎が立ち並んでいたという 。

■(3)宗柏寺■
牛込榎町にありながら「矢来のお釈迦様」で知られる宗柏寺は四月の花見の頃ともなる と、ふだん寺に縁のないような方々でも桜の花の見事さに誘われて境内に入り、そして「東
京の真ん中にこんな素晴しいお寺があったんですか」とびっくりする一樹山宗柏寺は寛永 8年(1631)大僧都興正院日意上人によって、武蔵国豊嶋郡牛込村の現在地に開創さ
れました。
江戸時代には毎年3月21日から4月21日まで開帳されています。江戸時代開帳 の日に門前市がたち参詣に訪れた善男善女で大変な賑わいであったと伝えられています 。

■(4)生田春月旧居跡■
生田春月(1892〜1930、明治25〜昭和5)詩人、鳥取の人、独学でドイツ語や文学を習得し、ハイネ、ビョルンソンなどを翻訳した。純粋で感傷的な詩風は大正期に人気を集めた。主著は「霊魂の秋」「感傷の春」などがあるが、39歳で瀬戸内海に投身自殺した。墓所は多聞院(弁天町)にある。

 
■(5)泉鏡花、北原白秋旧居跡(神楽坂二―23)■
泉鏡花は明治36年3月神楽坂二丁目に新築された借家に入った。そして5月になると神楽坂の芸者桃太郎(本名伊藤すず)と同棲した。これより前、鏡花は明治24年10月、横寺町の尾崎紅葉を訪ね、門下生となることを許されて玄関番として住み込んだ。鏡花が桃太郎を知ったのは明治32年1月の硯友会新年宴会の席でこのことは師紅葉に秘していた。同棲できたのは鏡花の友人が落籍の金の工面もしてくれたからである。36年4月に紅葉の病床へ呼びつけられた鏡花は、同棲を叱責されたという。鈴が晴れて鏡花夫人となるのは紅葉の没後である。こうした経緯が明治40年発表の「婦系図」に生かされる。

■(6)小浜藩酒井家江戸屋敷跡 「参考」杉田玄白誕生の地■
杉田玄白(1733〜1817・享保18〜文化14)は江戸中期の蘭方医、父は若狭 小浜藩医、17・8歳で外科を学び蘭医学の優秀さを知り「解体新書」を刊行、のちこの 翻訳事業の回顧録「蘭学事始」を著した 。

■(7)観世流能宗家■
室町時代は芸能の時代と呼べるほど各種の芸能が盛行したが、なかでも能・狂言は時代を代表するジャンルといえる。のちにそれぞれ宝生・金剛・今春・観世となった。

■(8)秋葉神社■
酒井邸の北側にある秋葉神社(祭神(さいじん)父産(ほほで)霊(の)命(みこと))は火伏せ神として知られ、大名や大奥女中の信仰を集めた。

■(9)赤城神社■
後伏見天皇の正安2年(1300年)に群馬県赤城山麓大胡(おおご)の豪族大胡氏が牛込に移住の際本国の鎮守であった赤城神社の御分霊を牛込早稲田村田島(今の早稲田鶴巻町元赤城神社の所在地)にお祀りし、寛正元年に太田道灌が神威を尊び牛込台に遷し奉り、その後、弘治元年(12555年)に至り大胡宮内少輔(牛込氏)の尊信特に深く現在の地に遷し奉ったものと伝えられております。

■(10)横寺町 水谷八重子旧居跡■
松井須磨子が自殺した折, この地より神楽坂警察に通報した。

■(11)善國寺(神楽坂五―36)■
善國寺には毘沙門天像がある。文禄4年(1595)に池上本95)に池上本門寺十二 世貫伝乗院日性上人が中央区馬喰町に初めて建立した。寛政4年(1792)に火災にあ って焼け、現在地に移ったものである。
毘沙門天像は、甲冑具足に身を固め、左手に宝塔を捧げ右手の鉾を持ち、足に夜叉鬼を踏 まえて立つ。毘沙門天は梵語で、人々の多くの願いを聞き御利益を与える事を誓願として いる天王という。この像は日性上人が池上本門寺に入山するとき、関白二条昭実から祝い として贈られたと伝わる。

■(12)行元寺跡(神楽坂五丁目)■
元は牛込区肴町39番地にあったが、明治末頃、現在の品川区西大崎に移転した。この寺は江戸時代以前からの古刹で明治十年頃から寺の周囲に人家ができ、花柳界が出現した。今も地元の人々はこの場所を寺内(じない)とよび、花柳界の中心をなしている 。

■(13)神楽坂(神楽坂一・二・三丁目)■
 神楽坂の地名の由来については、江戸時代から諸説がある。市ヶ谷駅近くの市谷八幡の祭礼で、みこしが牛込御門の橋の上にしばらくとどまり神楽を奏するから。若宮八幡のかぐらがこの坂まできこえるから、坂の途中に高田穴八幡の旅所(神霊渡御の際神霊を一時的に安置する所。旅所での祭りはにぎやかで、色々な神事芸能の発展をうながした)があり、祭礼でみこしが通るおりに神楽を奏するため、等々である。
盛り場としての神楽坂は江戸時代すでに行元寺門前に岡場所があったという。明治時代にはいって、花柳界となって盛況する。明治20年前後から毘沙門の縁日に夜店も出てしだいに山の手の繁華街の中心になった。とくに関東大震災で被害を受けなかったため、いっそう殷賑(いんしん)をきわめた。
 現在の町名神楽坂一〜六丁目は昭和26年5月に改正されたもので、それまでの神楽坂一〜三丁目は現在の一〜三丁目、上宮比町が四丁目、肴町が五丁目、旧都電通りの大久保通りから赤城神社に向かう通寺町が六丁目となった。

■(14)筑土八幡神社(筑土八幡町6番地)■
「江戸名所図会」には次のような縁起を記す。「祭神は応神天皇
神功皇后、仲哀天皇である。伝えに嵯峨天皇の頃(809〜822)、この地に一人の老翁が住み、八幡宮を深く信仰していた、あるとき夢の中で、当社の神がこの地を後世に伝えよと告げた。翌日一本の松ノ木の上にめでたいしるしの雲が、あたかも旗のようになびいた(松雲山の号はこれより起こったという)。そのとき、一羽の白鳥が飛来して松の木にとまった。里人はこの翁の霊夢をきくと、松の木の下に垣をめぐらし八幡宮としてあがめた。
 その後慈恵大師が諸国布教行脚のとき、伝教大師(最澄)彫刻の阿弥陀如来像を本地仏として小社を建てた。文明年間(1469〜87)に至り、江戸城主上杉朝興が社殿をつくり、この地の産土(うぶすな)神(かみ)にしたという。
 筑土の名は同社の社伝によれば、八幡宮創建のとき九州の宇佐八幡宮の土を取りよせて鎮守としたことによるという。
 戦前は筑土の森とよばれて樹木も多く雪の朝、明月の晩の眺めはひとしおだったが、戦災で樹木は焼かれ、往時の面影をとどめない。
 神社境内にいっぷうかわった音楽碑、田村虎蔵顕彰碑が建っている。「金太郎のうた」「花咲か爺」など小学唱歌の作曲家田村虎蔵は明治39年12月から昭和18年11月に没するまで筑土八幡神社西側筑土八幡町31番地に住んだ。虎蔵は明治四年に鳥取県で生まれた。同地の師範学校を卒業すると上京し、上野音楽学校にまなび、38年に東京高等師範学校助教授となった。
虎蔵は住居に隣接する高台の神社境内を愛し、ここを散策しながら曲想をねったという。「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「大黒様」「花咲爺」など今の愛唱されている数多くの名曲がここで誕生した。

■(15) 若宮神社(若宮町18)■
 仁徳天皇・応神天皇を祭神とする源頼朝によって勧請された由緒ある古社で、室町時代中期までは大社として栄えたが、市谷亀ヶ岡八幡宮の建立により衰退した。所有していた文化財は太平洋戦争ですべて焼失した。
 若宮八幡神社の由来は、文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原氏を討伐の折この地で下馬し祈願した。頼朝は奥州平定後、この地に鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を勧請したと伝えられる。その後、文明年間(1469〜87)に太田道灌が江戸城鎮護のために本社を再興したが、文明10年(1478)に同じく道灌が建立した市谷亀ヶ岡八幡宮の影響で序々に衰退した。

■(16)寒泉精舎跡(揚場町二―16・17)■
江戸時代後期の朱子学者で、昌平講の教官を務めた岡田寒泉(1740〜1816)の私 塾のあったところである。
寒泉は現在の新宿区新小川町に生まれ寛政元年(1789)幕府の儒者として松平定信に登用され、昌平講の教官にのちには奥侍講として寛政の改革に参画し、柴野栗山(りつざん)・尾藤二州(にしゅう)とともに「寛政の三博士」と称せられた。寛政六年(1794)常陸国(茨城県)の代官に転出し、在任十四年間に治政に功績を残し、岡田大明神とあがめられたという。
 寒泉精舎は寛政二年(1790)幕府からの拝領地の邸宅に隣接した領地に建てられた私塾で、敷地に372坪(約123〇平方メートル)堂の広さは五十余畳程で、朝ごとに素読を授け、日をきめて講義をしたが、門人や客で一杯であったという。寒泉は文化9年(1812)代官を辞し、同12年(1815)には病気のため塾を閉じ拝領地を返上し翌13年(1816)77歳で没した。

 
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